
今日10月3日は「ドイツ統一の日」です。
1990年(平成2年)のこの日、45年ぶりに統一条約の規定によって東西ドイツが統一され、ドイツ連邦共和国が誕生しました。
1989年(平成元年)11月9日東西ドイツを分けたベルリンの壁が消え、ベルリンの壁の上で熱い抱擁を交わす人々の映像を、世界中の人々が見守りました。
ドイツ統一はそのベルリンの壁崩壊から11ヵ月後の出来事でした。

ドイツにおいてこの日は建国記念日であり、祝日に定められています。
1990年以降、この日には連邦参議院議長の連邦州の州都においてドイツ統一の日を祝賀する公式行事が行なわれています。
また、慣例的に連邦州や州政府が市民祭を開催しています。
西ベルリン市長、西ドイツ首相を歴任したヴィリー・ブラントは「壁がなくなるのは、ドイツとヨーロッパの情勢が根本的に変わるときです。そうなることを確信しています。しかし、私が生きているうちにそうなるかどうかと言われれば、自信がないと言うほかありません」と語っていました。
しかしドイツ統一の流れは、ブラントの予想を上回る速さで進行しました。

当時、ソ連共産党書記長であったゴルバチョフのペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)などの国内改革が東欧世界に波及し、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放すると、東ドイツの体制に愛想をつかした市民が、ハンガリーとオーストリアを経由して西側へ逃れ始めました。
そして、ライプツィヒでのデモ行進をきっかけに、民主化運動は東ドイツ全域に広がり、その波を抑えきれないと判断したドイツ社会主義統一党の指導部はベルリンの壁を開放しました。
この出来事により、東西ドイツ内の行き来が自由になると、東ドイツ市民の関心は改革から統一へと移っていきました。

ドイツ統一をめぐっては、東西ドイツが対等な立場で統一を実現する方式と西ドイツが東ドイツを吸収する方式が考えられていました。
当時の西ドイツ首相のヘルムート・コールは、東西ドイツの段階的な統一を構想していましたが、西ドイツが東ドイツを吸収する方式に切り換えました。
なぜならば、統一を急がねば、東ドイツから西ドイツへの市民の流入を抑えきれず、東ドイツ側の社会や経済に影響が出ると判断したためです。
そこで、1990年、西ドイツと第2次世界大戦の戦勝国である米ソ英仏の間で外相会談が開かれ、ドイツ統一の国際的な枠組みについて話し合われ、ドイツ統一のための最終条約が締結され、10月3日にこの条約が発効し、ついに東西ドイツは統一されました。
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