
今日9月16日は「マッチの日」です。
1948年(昭和23年)のこの日、配給制だったマッチの自由販売が認められました。
1938年(昭和13年)綿糸配給統制規則によって国内綿糸の消費量が規制されたのに始まり、以後、1939年の電力調整令、1940年の砂糖・マッチの切符制、1941年の米穀配給制、1942年の衣料総合切符制と続きました。
戦争の長期化によるもので、日用品から生産資材に至るほとんどの物資が統制配給の対象となっていました。
マッチは、細長い木片や厚紙などの可燃物質の先端に、摩擦で発火する物質をつけた道具をいいます。
マッチ棒とも呼ばれ、火を得るために使用され、漢字では「燐寸」と書きます。
マッチは摩擦で発火する物質として、リン(燐)の燃えやすい性質を利用しています。
摩擦マッチを最初に発明したのは、イギリスの化学者ジョン・ウォーカーで、薬剤師でもあったウォーカーは、1826年に偶然にも摩擦による発火を発見し、翌年に「friction lights」の名称で摩擦マッチの販売を始め、多くを売り上げました。
ちなみに「friction」は「摩擦、擦れ、衝突」という意味です。

現在の一般的なマッチは「安全マッチ」と呼ばれ、、マッチ箱の側面がヤスリ状の摩擦面になっており、マッチ棒の先端の発火部をこすりつけることで発火させます。マッチ棒の頭薬に塩素酸カリウムを、マッチ箱の側薬に赤燐を使用し側薬と合わさることで初めて発火するタイプのマッチです。
したがって、摩擦だけで発火することはありません。
国産マッチの開祖
金沢藩士であった「清水 誠」は1856年(慶応元年)、20歳の時、洋学修業のため、藩の選抜で長崎、横浜へ派遣され、1868年(明治元年)に横浜でフランスから招いたお雇い外国人のヴェルニから器械学、造船学を学びました。
そして、1869年(明治2年)にフランス留学を果たし、ヴェルニ塾に学び、1873年(明治6年)にはパリ工芸大学で理工科系科目を習得し、ここで身につけたことがのちのちマッチの開発に役立つことになります。
その時、「輸入に頼っている高価なマッチを、日本でも作れないか」と思い立ち、マッチの製造の研究を開始します。
当時の「輸入マッチ」の価値は、小箱一個で米4升(およそ30銭)とほぼ同じだったそうで、高級品でした。
そして留学を終えた1876年(明治9年)にマッチ会社を立ち上げ、本格的にマッチの生産を開始しました。
その清水が販売した「国産マッチ」は1~3銭と、「輸入マッチ」の10分の1以下と、比べ物にならないほど安価でした。
そのフランス留学のため清水が横浜港を出航した日の5月12日を「マッチの日」としているところもあります。
そしてまた、1975(昭和50年)5月12日に東京都江東区亀戸天神社境内に「清水誠顕彰碑」が再建されました。
こうして日本中に広まった国産マッチですが、現在マッチの全国シェア率は兵庫県が90%以上を占めています。
さらに兵庫県で生産される高品質な広告用マッチは、現在も生産量の約20%弱は欧米向け中心に神戸港から輸出されています。
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