
今日9月13日は「乃木大将の日」です。
1912年(大正元年)のこの日、乃木希典(のぎ まれすけ)大将が、明治天皇の大喪の日に、夫人の乃木静子とともに殉死しました。
大喪(たいそう)とは天皇の葬儀のことで、乃木大将は62歳でした。
この日は乃木大将の忌日であり、「乃木忌」や「希典忌」とも呼ばれています。
乃木大将は、江戸の長府藩上屋敷で生まれた長府藩士で、日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名です。
階級は陸軍大将。
さらに、第10代学習院長に任じられ、後に昭和天皇となる迪宮裕仁(みちのみや ひろひと)親王の教育係も務めました。
東京都港区赤坂の乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地に乃木夫妻を祀った「乃木神社」が建立された他、栃木県・京都府・山口県・北海道など、日本の各地に乃木神社が建立されました。
また、港区の「乃木坂」の地名に名前を残しており、乃木神社前に名前の由来を記した石碑が建てられています。
乃木 希典の人柄と水師営の会見

旅順攻囲戦で、旅順要塞を陥落させた後の1905明治38年(明治38年)1月5日、乃木は旅順要塞司令官ステッセルと会見しました。
この会見は水師営において行われたので、水師営の会見と言われています。
会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じられました。
これを受けて、乃木は、ステッセルに対して極めて紳士的に接しました。
通常では降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けました。
さらに、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず
「敵将(ステッセル)に失礼ではないか。後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ。」
と、会見写真は一枚しか撮影させず、ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじました。
こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛されました。
後にこの会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載されています。
唱歌 水師営の会見 歌詞

1.旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所はいづこ水師営
2.庭に一本棗(ひともとなつめ)の木 弾丸跡も著るく 崩れ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍
3.乃木将軍は厳かに 御恵み深き大君の 大詔伝うれば 彼畏みて謝し奉
4.昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ち解けて 我は讃へつ彼の防備 彼は讃へつ我が武勇
5.形正して言ひ出でぬ「この方面の戦闘に 二子を失ひ給ひつる 閣下の心いかにぞ」と
6.「二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目」と大将答へ力あり
7.両将昼餉共にして なほも尽きせぬ物語「我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし」
8.「厚意謝するに余りあり 軍の掟に従ひて 他日我が手に受領せば 長く労わり養はん」
9.「さらば」と握手懇ろに 別れて行くや右左 砲音絶えし砲台に ひらめき立てり日の御旗
乃木 希典と殉死
旅順攻囲戦や奉天会戦後、東京に復命後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読しました。
乃木は復命書を読み上げる内に、自責の念の為に涙声となってしまったと言われています。
乃木は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上しましたが、天皇は、乃木の「苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」という趣旨のことを述べたそうです。
そして、1912年(大正元年)9月13日の明治天皇の大喪の礼が行われた日の20時頃、乃木は妻・静子とともに自刃して亡くなりました。
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