9月3日 ホームラン記念日

今日は何の日

今日9月3日は「ホームラン記念日」です。

1977年(昭和52年)のこの日、後楽園球場で巨人の王貞治選手が通算756号ホームランを打ち、それまでアメリカ大リーグのハンク・アーロンが持っていた世界最高記録を更新しました。
その2日後の9月5日に、政府は初の国民栄誉賞を贈り、その栄誉を讃えました。
王選手は引退までに世界記録となる通算868本のホームランを打ち、巨人のV9に貢献しました。
また、2010年(平成22年)には文化功労者としても顕彰されました。

王 貞治(おう さだはる)

現在では福岡ソフトバンクホークスの取締役会長日本プロ野球名球会顧問球団特別アドバイザーを務めておられます。
セ・リーグ初の三冠王達成者。世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、読売ジャイアンツのV9に貢献しました。

一本足打法」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数のNPB記録を打ち立てるなど、長嶋茂雄氏とともにON砲として強大な打力でチームに貢献し、巨人の「V9」時代の顔として人気を誇りました。
王選手の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本はNPB最多記録であり、ハンク・アーロンが保持していた当時のMLB通算本塁打記録の755本塁打を抜いたことでも知られています。

新記録の756号まであと40本で迎えた1977年、マスコミやファンの興味が王の「世界新記録」に集まる中、4月2日開幕戦(対中日、後楽園球場)の3回裏二死での第2打席に真ん中低めのカーブを打って通算14本目の満塁本塁打を放ち好調なスタートを切りましたが、その後はなかなか打球が上がらず、4月は打率こそ3割5分台をキープしていたものの月間わずか4本塁打に終わってしまいます。
続く5月は極度の不振に陥り、打率ベストテンからも名前が消えるほどとなってしまいました。
本塁打争いも好調なスタートを切った田代富雄、ハル・ブリーデン、山本浩二らに大きく差をつけられ、本人の口からも「アーロンの姿が見えたかと思ったら霞んでいく」と弱気な発言が出るほどでした。

しかし、37歳になった5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打を記録。
そして例年最も本塁打を量産していた8月に13本塁打と猛スパートをかけました。
8月11日には16年連続となる30号(通算746号)を記録し、本塁打王争いでも首位を走っていた山本浩二氏を遂にとらえました。
8月最も本塁打が出なかった期間は、節目かつ新記録へのカウントダウンが現実味を帯びてきた750号達成時の9日間で、あとはほとんどコンスタントに本塁打を量産しました。

そして、8月31日の後楽園球場での対大洋22回戦1回裏一死、出塁した土井正三選手を一塁に置いて2点本塁打して、現役19年目、通算2425試合目、そして10145打席目にしてアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を記録しました。
ちなみに、日米の野球の違いはあるものの、ハンク・アーロンは23年目、3275試合目に記録しました。

その3試合後の9月3日対ヤクルトスワローズ戦3回裏一死無走者の第2打席で、フルカウントでの6球目、鈴木康二朗投手のど真ん中のシンカーをライトスタンドへシーズン第40号を放ち、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成しました。

アナザーストーリー

一方、756号を打たれた鈴木投手は当時、報道陣から取材攻めに遭っていました。
これを慮った王氏は鈴木氏に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ましたそうです。
鈴木氏は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗ることになってしまう」と奮起し、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍しました。
プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続け、その後は野球ではなく、アマチュアゴルフでも活躍していました。
756号を打たれた投手には「勇気ある投手賞」としてサイパン旅行が送られることになっていましたが、鈴木はプロのプライドとしてこれを断りました

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