
今日8月30日は「富士山測候所記念日」です。
1895年(明治28年)のこの日、富士山頂剣ヶ峯に野中測候所が開設した。
この測候所は大日本気象学会の野中 到((のなか いたる 1867~1955年)が私財を投じて建設したもので、木造6坪の観測所だった。観測を始めたのは10月からで、1923年(大正12年)に開設された気象庁の富士山測候所の前身となった。
富士山のような高層での観測は、世界中誰も行ったことがなく、その仮説が正しいかどうかもわかりません。成功するとは限らないのに命をかけて挑戦したということで、その情熱を忘れないためにも、この日が富士山測候所記念日になっています。
初めて富士山に測候所が作られたころは、日本の近代史は始まったばかりで、様々な技術が外国よりも劣っていた時代です。
気象観測もそのひとつで、より高い精度の気象予報をするために、富士山での観測が必要だと考えたのが野中到(いたる・至)でした。
当時は、現在のような断熱技術もない時代に、富士山山頂で冬を乗り切ることは不可能だと考えられていました。ところが野中到は反対意見を押し切り、私財を投じて富士山山頂に観測所を建て観測を開始しました。
毎日2時間毎に12回の観測。
気象観測においてはデータ収集の継続性が重要なのですが、野中到はこの作業をたった1人で行いました。
ほとんど眠ることもなく、しかも気象環境の厳しい3776mという高地ですので徐々に体力を消耗していきました。

それを支えたのが妻の野中千代子でした。観測所が完成して1度は下山したものの、野中到の観測を支えるための準備を整えた彼女は、再び富士山山頂に戻り、野中到と2人で気象観測を行いました。
それでも冬が近づくにつれて2人は高山病や栄養失調により体調不良となり、同年の12月22日に下山することになりました。
90日に満たない観測でしたが、ここから富士山山頂での気象観測の歴史が始まりました。
今では富士山の気象が関東地方の天気と連動しやすいことがわかっていて、さらには台風観測を含めた日本の気象観測において重要な役割を果たしてきましたが、それもすべて野中夫妻の情熱があってのことでした。

ちなみに富士山測候所は、自動観測技術が進歩したために1999年(平成11年)にレーダー観測が廃止され、2004年(平成16年)10月1日に最後の常駐職員が下山し、無人施設となりました。
現在、富士山特別地域気象観測所として気圧・気温・湿度などの観測を行っています。
また、富士山頂の代表的な構造物であった旧レーダードームなどは、山梨県富士吉田市にある富士山レーダードーム館に移設され、往時をしのばせる施設として見学することができます。
小説・芙蓉の人
妻・野中千代子は生前に「芙蓉日記」を著し、のち新田次郎が「芙蓉の人」として小説化しています。
その「芙蓉の人」は1971年に刊行された新田次郎の小説で、野中到と野中千代子の夫婦愛と気象観測への熱い想いを描いた作品です。
小説ですのでフィクションも交えていますが、富士山での気象観測にかける情熱や厳しさを学ぶことができます。
野中到(至 いたる)
野中 到(のなか いたる)は、日本の気象学者で、筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれました。
富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退し、富士山での年中観測を目指した。
多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームです。
墓所は妻・千代子と共に東京都文京区の護国寺にあります。
野中 千代子
福岡県生まれで本名千代。父は能楽師の梅津 只円。
1895年(明治28年)10月1日から富士山頂で越冬の予定で高層気象観測を始めた夫の身を案じ、10月中旬周囲の反対を押し切って登頂し、1日12回、2時間おきの観測に専念できるよう夫の身の回りの世話をすると同時に、観測を手伝いました。
その記録として「芙蓉日記」を著しました。
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