
今日8月27日は「貝原益軒忌」です。
江戸時代前期~中期の儒学者・本草学者の貝原益軒(かいばら えきけん)が旧暦のこの日に84年の生涯を閉じました。
墓所は福岡市中央区も金龍寺にあり福岡県指定史跡にもなっています。。
江戸時代の人々の平均寿命は40歳を下回っていましたが、その時代に、貝原益軒は80歳過ぎまで生きました。
しかも最期まで認知症や寝たきりになることなく生涯を全うしたそうで、まさに健康長寿を体現した人物です。
貝原益軒について

1630年(寛永7年)11月14日、筑前国(現:福岡県)に生まれました。
江戸時代の本草学者(現代で言う薬学者)、儒学者で、 50年間に多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で先駆者的業績を挙げました。
幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となりましたが、書物だけにとらわれることなく、自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面もありました。
祖父の代より黒田氏に仕える父や兄に医学・漢学を学び、18歳で福岡藩に仕えるが、第2代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることになりました。
その間、医学修業に励み、26歳の時、第3代藩主の黒田光之に許され、藩医となりました。
その後、藩命により京都に遊学し、医薬に関する本草学(ほんぞうがく)や、陽明学、朱子学などを学びました。
そして34歳の時に帰藩し69歳で役を退いた後は、著述業に専念し、教育・医学・本草・歴史などにも功績を残しました。
著書には、歴史書『黒田家譜(くろだかふ)』、本草書『大和本草(やまとほんぞう)』、教育書『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』、養生(健康)についての指南書『養生訓(ようじょうくん)』(後述)、随筆『慎思録(しんしろく)』などがあります。
中でも、本草書『大和本草(やまとほんぞう)』は中国で出版された『本草綱目』に訓点を付け、自らの経験から記述を加えて発行されたもので、これまで中国から伝わる薬草を和名に換えるのが主体であった本草学に、実用的観点からの記述を加え、博物学へ展開される始まりとされ、以後は植物の形状や生態、日用への可能性などに本草学の関心が向けられることとなりました。
貝原益軒は人柄も非常に優れた人物であったといわれています。
いくつかのエピソードから垣間見られるのは、器が大きく、目の前のできごとを平静に受け止め、日々の生活を大切に生きていた姿です。
時代を超えてもなお、「養生訓」(後述)が読まれ続けるのは、どのよう状況であっても心を穏やかに保ち、日々を過ごせる命に感謝して生きていく姿勢に、我々が心を改められる気持ちになるからだと思います。
養生訓
『養生訓(ようじょうくん)』は、貝原益軒の晩年に書かれた、健康で長生きするためのエッセンスを実体験に基づく健康法を解説した養生(健康、健康法)についての指南書です。
長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いているところに特徴があります。
そういう意味から、一般向けの生活心得書であり、広く人々に愛読されました。
養生訓には「当たり前のことを当たり前にできないと心と身体が病気になる。与えられた命と身体に感謝して慎み深く、そして自分の人生を楽しんで生活するべきである」という精神のもとに、生活するうえでの心得が全八巻を通して書かれています。
そして、養生訓に書かれていることは、バランスのとれた食事と適度の運動、良質な睡眠、そしてストレスは避けて心を穏やかに保ち、楽しみを持って元気に過ごすという、現代の生活習慣病の予防や治療に通じることが全て網羅されていると感じます。食事も暮らしも質素であった時代から、欲を制して控えめな生活をすることが健康長寿につながると説かれていて、江戸時代よりも格段に物が豊富にそろう現代では、どれだけ自分を制し、欲をコントロールして生きていくかが健康のために大切なことと伝えています。
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