
今日8月6日は「広島平和記念日」です。人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空約9600mで世界初の原子爆弾リトルボーイを投下し、上空約600mで爆発しました。
広島市街は壊滅し、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計されている。当時の広島市の人口は約35万人でした。
この日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜0時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。
一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの一日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。
当時のアナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600mの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。
火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200mを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これらの要素が複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

この歴史的悲劇から人類は目をそむけることなく、犠牲となった多くの人々の霊を慰め、世界平和を祈る日として広島市では「平和記念日」とし、この日に原爆慰霊碑の前で「平和祈念式典」が行われます。
平和祈念式典において、原爆が投下された午前8時15分に平和の鐘やサイレンを鳴らし、原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り、1分間の黙祷が行われます。
その後、広島市長による平和宣言、子どもによる平和への誓いが行われます。
この日は、市機関の執務は「原則として行わない」と規定していて、広島市役所等は閉庁となります。
「原爆犠牲者の慰霊や恒久平和を祈る日としての意義を広く伝える」「多くの市職員にとって被爆死した身内の命日である」「平和記念式典の運営態勢を作る」等を主な理由としています。
広島市に対しての原子爆弾の実戦使用は、人類史上初の都市に対する核攻撃で、わずか3日後の1945年8月9日には、長崎市へも原子爆弾が投下され、これに由来して8月9日は「ながさき平和の日」となっています。

爆心地近くには「原爆ドーム」があり、原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物となっています。
原爆ドームは、もともと広島県の様々な物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、戦時中から原爆投下時までは広島県産業奨励館と呼ばれていました。現在では「広島平和記念碑」とも呼ばれています。
そして、1996年(平成8年)12月5日にユネスコの世界文化遺産への登録が決定され、平和を訴える記念碑であるとともに、人類が犯した悲惨な出来事を伝える遺産として「負の世界遺産」と呼ばれています。

この日の夕方から、平和記念日の特別な行事として「とうろう流し」が行われます。
親族や知人を原爆で失った遺族や市民たちが、戦後に原爆の犠牲者を追悼するために手作りの灯篭を川に流したのが始まりとされています。
場所は原爆ドームの前を流れる元安川(もとやすがわ)で、それぞれ灯篭に平和への祈りを込めたメッセージを書き、そのとうろうを川へ流します。
元安川とその周辺は、その夜は、とうろうの幻想的な灯りに包まれます。
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