
明治期に活躍した作曲家、瀧廉太郎(たきれんたろう)の忌日です。
私たちが子どもの頃に親しんだ「お正月」などの唱歌や、「荒城の月」、「花」といった名曲を遺した作曲家です。
1879年(明治12年)8月24日に東京都港区西新橋)に生まれました。
その後、官僚だった父の転勤のため、神奈川県・富山県を経て大分県竹田市に移り住みました。
卒業後、東京音楽学校(現・東京藝術大学)で学び、日本人3人目のヨーロッパ留学生としてドイツに渡りましたが、5か月後に結核を発症し帰国を余儀なくされました。
帰国後、父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日に自宅にて亡くなりました。。
その生涯は23年10か月という短いものでしたが、日本における西洋音楽の普及や音楽教育に大きな役割を果たしました。
荒城の月
土井晩翠の詩に、東京音楽学校の瀧廉太郎が曲をつけて描いた作品。日本における曲では、これまでのヨナ抜き音階(明治以降の日本で使われる五音音階)の日本の旋律ではなく、創めて西洋音楽の旋律を大衆に押し広げた歴史的な歌曲である。
歌詞
春高楼こうろうの花の宴えん めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝えわけいでし むかしの光いまいずこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁かりの数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど 栄枯えいこは移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月

瀧廉太郎は、小学校時代を過ごした富山城や大分県竹田市の岡城址から曲の着想を得たと言われ、それぞれ富山城西側、岡城址に歌碑と廉太郎の銅像が設置されています。
廉太郎は、当時すでに本丸の高楼を残して外堀の埋め立てが始まった富山城の小学校に通って音楽会に参加し、剣の立山連峰を渡る月夜の雁を仰ぎ、又、竹田では石垣のみとなった岡城址で一人佇んで思索したと伝わります。
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