6月27日 演説の日

今日は何の日

今日6月27日は「演説の日」です。

1874年(明治7年)のこの日、慶応義塾の三田演説館で福澤諭吉とその門下生たちによって、日本で初めて演説の実践・研究を目的とした演説会が行われました
この日の演説で福澤は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を付けることが必要」と説きました。
会場となった三田演説館は、福澤諭吉が私財を投じて建てたもので、今日の慶應義塾において福澤諭吉の存命中から存在する唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。

演説とは

演説(えんぜつ)とは、議会や民衆などの前で自らの主義、主張を話すこと。英語ではスピーチともいいます。広辞苑によれば、演舌と表記されることもあります
「演説」という表記は福澤諭吉と慶應義塾関係者による造語で、当初、福澤の出身地である旧中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌の字は餘(あま)り俗なり、同音の説の字に改めん」としたことが端緒です。

また、仏教語のニルデーシャの訳で、法(真理や道理など)を人々にわかりやすく説き明かすことを言います。
福澤諭吉等の翻訳以前は、主にこちらの意味で演説という語句が使われていました。
明治時代の演説ブームを経て、「人前で主義主張をする」という活動や意味が広く普及し、現在は当たり前のように使われています。

ちなみに、日本語の「演歌」は、明治の自由民権運動時代にできた言葉で、政府批判を歌に託した演説歌の略で「演説」が語源になっているとも言われています。。
「演歌」と呼ばれる歌は、その最初は19世紀末の自由民権運動の時代に遡ります。
藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌(プロテストソング)として「演説歌」が生まれました。
その日本最古の歌声として収録されている「オッペケペー節」は、過激活動家でもあった福岡出身の川上音二郎によるものですが、現代の演歌とはおおよそ似ても似つかないもので、メロディーを持たない、リズミカルでアナーキーなその節は、現代のラップに近しいものでした。

三田演説会

福澤諭吉は1873年(明治6年)の夏頃から慶應義塾の有志者とともに演説弁論の技量向上に努め、翌年6月27日に三田演説会の発会式を行いました。
初期の演説会は会員のみの集会で、公衆の傍聴を原則として認めていませんでしたが、三田演説館の開館後はこれを一般に公開しました。
明治10年代の自由民権運動興隆期には三田演説会も大盛況となり、多くの民権活動家も演説館にたびたび足を運びました。
1890年(明治23年)7月1日に第1回衆議院議員総選挙が行われ、慶應義塾出身の当選者は28名に達しました。

長い歴史の中で、変わった試みとして1881年(明治14年)には慶應義塾の童子科生(12歳~15歳程度)による幼童演説会が数回開催されました。
これらの演説会の参加者のうち数名は後の三田演説会にも名を連ねています。

その後、三田演説会は慶應義塾の伝統行事となり、戦中戦後の中断期および学生運動期、そして最近では新型コロナウイルス感染症拡大による中断などをはさんで現在も年2回開催されていて、2023年(令和5年)12月21日の演説会まで通算で712回を数えています。
そのテーマは教育や環境問題、政治的話題が取り上げられています。

ジョン・F・ケネディの大統領就任演説

よく引用されて、皆様もよく耳にするフレーズがある演説として、ジョン・F・ケネディの大統領就任演説があります。

その最後の部分は

「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。
世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。
最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。
我々にとっての唯一確かな報酬とは良心の喜びであり、我々の行いに最後の審判を下すのは歴史である。主の恵みと主の助けを求めつつ、しかも神の御業をこの地上で為すのはまさに我々なのだと肝に銘じて、我々の愛する地を導くために前進しようではないか。」

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