
今日6月26日は「雷記念日」です。
930年(延長8年)のこの日(旧暦・現代では7月24日)、平安京の清涼殿に落雷があり、時の大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)をはじめ、朝廷の要人に多くの死傷者が出ました。
それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御されました。
平安京では長い間日照りが続き、公卿たちが清涼殿に集まり雨乞いを行っていた時の出来事だった。
この落雷は政治的な策略によって京の都から太宰府に左遷され、そこで亡くなった菅原道真(すがわら の みちざね)の祟り(たたり)であると信じられ、道真の学者としての名誉を回復した。また、これにより菅原道真は雷の神「天神」と同一視されるようになり、「天神=学問の神」として菅原道真が祀られるきっかけとなった日である。
由来となった清涼殿落雷事件
平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞いの実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなりました。ところが、正午過ぎより愛宕山(比叡山と並びよく目立っており、信仰の山としても知られる)上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、16時過ぎに清涼殿の南西の第一柱に雷が直撃しました。
この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。
16時半過ぎ、雨が上がり、清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく亡くなりました。
清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢(忌まわしく思われる不浄な状態。死などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられていた)に直面し、遺体の搬出のため大混乱となりました。
7月に入り、穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に遷座しましたが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなります。
天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。
菅原道真は死後は怨霊になり、清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人とも言われています。
その道真が、学問の神となったのは、942年(天慶5、平安京に住む多治比文子(たじひのあやこ・道真の乳母))に、道真の霊が憑依し、自分を祀るように強く求めたと伝わります。
そこで朝廷は、平安京内の右近馬場の地に北野天満宮を創建することを容認しました。
ちょうどこの時期、平将門の乱や藤原純友の乱などが続発しており、都の貴族たちは不安に苛まれていたことも容認した理由となったのではと。
北野天満宮は、学問の家柄である菅原一族が管理することになり、朝廷もこの神社を保護して勅祭の社にしたこともあり、繁栄するようになりました。
人々は、雷神という祟る怨霊を神社に祀り上げることによって、学問神という福の神へと変化させたのでした。
菅原道真と怨霊伝説

九州の大宰府へ左遷された菅原道真は、その2年後、無念の涙をのみながら道真はなくなりました。
それから5年後の908年(延喜8年)藤原菅根が雷にあたって亡くなりました。菅根は道真の弟子だったのに、師の失脚に加担した人物でした。
さらに翌年、道真を不幸に追いやったライバルの時平が、39歳の若さで急死。この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続くようになり、「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されるようになりました。
923年(延喜23年)醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳の若さで死亡。保明は、藤原時平の妹・穏子が産んだ子でした。醍醐天皇もこれは道真の祟りではないかと考えるようになり、周囲の勧めもあり、道真の大宰府行き(左遷)を命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に戻したうえ正二位を追贈しました。
しかし新たに皇太子となった保明の子・慶頼王も、2年後に5歳で夭折。慶頼の母の仁善子も時平の長女にでした。
その後の930年(延長8年)、清涼殿落雷事件が起こります。
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