
今日6月25日は「天覧試合の日」です。
天覧試合(てんらんじあい)とは、日本の天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合のことで、天皇以外の皇族が観戦する試合は「台覧試合」と呼びます。
相撲においては神話の時代からの歴史があり、垂仁天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の勝負が行われたのが最古の記録です。
また相撲節会は宮中行事として行われていました。
1959年(昭和34年)のこの日、昭和天皇皇后両陛下が後楽園球場で巨人対阪神戦を観戦しました。
プロ野球の天覧試合はこれが初めてのことで、歴史的イベントとして記憶されることとなりました。
開催までの経緯
当初から巨人-阪神戦で天覧試合を開催するという決定ではなく、パシフィック・リーグでも天覧試合を開催したい意向がありました。
昭和天皇は水道橋方向(後楽園球場)を眺めていた時「あの灯りは何か?」と侍従に尋ねると「プロ野球のナイター試合であります」と答え、関心を示した。
それを伝え聞いて、「絶好の機会にしよう」と考えた巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎が「野球人気を高めるためには天覧試合を開催することが必要だ。それも巨人戦で」と宮内庁に交渉するように命じました。
1959年(昭和34年)1月、正力と部下が宮内庁と交渉をすると宮内庁は「単独の球団での要請では動けない。球界全体の総意が必要」と答えたそうです。
それ以後、パ・リーグに気づかれないように交渉が続けられましたが、昭和天皇の公務の関係でスケジュール調整がなかなか進みませんでした。
一方、パ・リーグ側でも映画試写会に昭和天皇を招いた大映社長の永田雅一が、当時自らオーナーを勤めた毎日大映オリオンズ-西鉄ライオンズの試合を天覧試合にするように毎日新聞の皇室担当記者を介して説得していました。
そして6月19日、宮内庁から正式な回答があり、「6月25日午後6:45ご出門。プロ野球ご観覧のため後楽園球場にお出になられます」と、正式に同日の巨人-阪神戦を天覧試合とすることになりました。
その時、パ・リーグ側の永田は「神(昭和天皇)がプロ野球をご覧になるのは球界のためにも名誉になる。ごたごたを起こすわけには行かない」と語り、オリオンズの試合ではないことに異議を言わなかったそうです。
当日の後楽園球場では鳴り物応援が禁止されており、球場の雰囲気も普段に比べとても静かでした。
先発投手は巨人が藤田元司、阪神が小山正明とエース同士の対決であった。試合前には両チームの監督・コーチ・選手全員が内野付近に一列で整列し、貴賓席に現れた天皇・皇后に一礼をしてから試合が始まりました。
試合は点の取り合いとなり、3回表・阪神が小山自らの適時打で先制点を挙げ、その後5回裏・巨人が長嶋茂雄と坂崎一彦の連続本塁打で逆転すると、6回表・阪神が三宅秀史の適時打と藤本勝巳の本塁打で4-2と逆転します。
7回裏・巨人は王貞治の本塁打で、4-4の同点に追いつき、阪神は新人・村山実をマウンドに送ります。
同点のまま9回に入った時には21時を過ぎていました。
天皇・皇后が野球観戦できる時刻は21時15分までだったため、延長戦に突入した場合は天皇は試合結果を見届けられず、途中退席になる可能性がありました。
しかし、21時12分、9回裏、先頭バッターの長嶋がレフトポールぎりぎりにサヨナラ本塁打を放ち、5-4で接戦に劇的な終止符が打たれ、天皇・皇后は試合結果を見届けた上で、球場を後にされました。
試合経過
阪神 0 0 1 0 0 3 0 0 0 4
巨人 0 0 0 0 2 0 2 0 1x 5
阪神出場選手
阪神 監督 田中義雄
打順 守備 選手
1 [遊] 吉田義男
2 [二] 鎌田実
3 [三] 三宅秀史
4 [一] 藤本勝巳
5 [左]中 大津淳
6 [右] 横山光次
7 [中] 並木輝男
打 遠井吾郎
左 西山和良
8 [捕] 山本哲也
9 [投] 小山正明
投 村山実
巨人出場選手
巨人 監督 水原円裕(茂)
打順 守備 選手
1 [左] 与那嶺要
2 [遊] 広岡達朗
3 [中] 藤尾茂
4 [三] 長嶋茂雄
5 [右] 坂崎一彦
6 [一] 王貞治
7 [二] 土屋正孝
8 [捕] 森昌彦
9 [投] 藤田元司
この試合以降、プロ野球公式戦では天覧試合は行われていません。
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