
今日6月15日日は「米百俵デー」です。
新潟県長岡市が市制90周年を迎えた1996年(平成8年)に制定された、まだ新しい記念日の一つです。
戊辰戦争で敗れ財政が窮乏した長岡藩に、支藩三根山藩から百俵の米が贈られたが、藩の大参事(明治時代初期の府藩県三治制の時期に置かれた、地方官の長官に次ぐ官職。現在の副知事、幕藩体制における家老に相当)小林虎三郎は米を藩士に分け与えず、「食えない時こそ、教育が大切だ」という信念のもと、売却した代金で学校を設立することにしました。そのお金によって「国漢学校」が開校したのが1870(明治3)年のこの日でした。

これで生活が少しでも楽になると喜んだ藩士たちはこの通達に驚き反発して小林虎三郎のもとへと押しかけ抗議しました。
それに対し小林虎三郎は、
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
と諭し、自らの政策を押しきりました。
開校した「国漢学校」には、洋学局と医学局が設置されました。国漢学校は士族によって建てられた学校ですが、一定の学力に達した庶民の入学も許可されました。
後年、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥などの、新生日本を背負う多くの人物が輩出されました。
この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが<米百俵>です。

このエピソードは、「米百俵の精神」という言葉になり、内閣総理大臣だった小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用されて有名になり、2001年の流行語大賞にも選ばれました。
小林虎三郎

文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は教育者でした。
独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していました。
興学私議(こうがくしぎ)の要約
嘉永6年ペリーが来航してから、水兵、陸兵を強化し、大砲や巨艦を作り、砲台を固め、オランダに航海術を学び、藩学院を建ててきたが、その効果はあがっていない。外敵はますます大胆になるが、こちらは戦々恐々として、彼らの機嫌をうかがう状態である。この災いの根源は、真の学問が不在であるからだ。文武百官は皆、職名をつけているが、実は虚名であって、何も学んでいない。また学者は私見を述べるだけで、意見を交換したり、互いに学び合うことをしない。兵を知らないものが軍を率い、学ばざるものが執政の職にあるという風である。ところが西洋の様子をみると、その学問の精密なことに驚く。しかも学校を興し、人材を養成し、兵を強くしている。しかるに我が国は改革の命が下って6、7年もたつのになんの効果もあがっていない。これはすべて人材に乏しいからである。
では、教養を広め、人材を育成するとはどういうことか。それは道と芸である。道は人の生きるべき体(道)を明らかにする。芸は用を達す、つまり実際に事を処理する術をいう。この二つは離れてはならないものである。今、江戸では大学(昌平黌)、講武所、蕃書調所があるが、三者の間には何も連絡がない。これでは効果があがらない。学の閉鎖性を破るには、三者が密接に統合されるべきである。その三学の制より、もっと根本的に考えなければならないのは小学である。西洋では、この小学の法がよく整っていると聞く。基礎から人材を養成していけば、国は富み、兵は強くなる。だから国家は、学問を興し、教育を普及させ、人材を育てて、世界の国々と肩を並べるべきだ。
「米百俵の精神」は、次世代に伝えていくべき大切な価値です。
米百俵デーは、教育や人材育成の大切さを再認識し、それを社会全体で支えていく意識を高める機会ではないでしょうか。
最近「「子ども・子育て支援法等の一部を改正する法律案」が可決・成立しましたが、その法制や審議過程においての問題点はあるものの、その趣旨は「米百俵の精神」に通じるものがあるのではないでしょうか。
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